ウルティマ オンライン・イマジネーション

「お母さん、おうちに帰ろうよ…」
　パレの膝に抱かれている三歳のライアンがぐずり始めた。パレは、子供を抱きしめてあやすが、ライアンはとうとう泣き出してしまった。
「帰ろうよぅ…」
「静かにしなさい！」
　甲高い声で叫んでライアンを叩いたのは、五歳のリーナだった。状況を理解しているリーナも、この空気が怖いのだ。虚勢を張ろうと弟に八つ当たりしてしまったのだろう。叩かれて、ライアンはいっそう声を張り上げて泣き出した。
「リーナ！」
　パレは、娘を叱った。
　それで、リーナの緊張の糸も切れてしまった。リーナも声を上げて泣き出した。泣きじゃくる二人の子供を抱え、パレも泣きたくなった…
「二人とも、外で遊んできたらどう？」
　声をかけたのは、手伝いに来ていた隣の家の主婦だった。すると、ロスが立ち上がって言った。
「そうだ、じいちゃんと外で遊ぼうな」
「あら、ロスさん、あなたはここにいなさいよ。うちの人にでも任せて…」
　隣の主婦が言い、その夫が立ち上がりかけたが、ロスは
「いいんだ、ほら、おいで」と子供たちに手をさしのべた。しかし今日会ったばかりの大人に人見知りして、子供たちは母親から離れようとしない。ギャレットが立ち上がって、子供たちのそばに行った。
「ほら、おじさんに遊んでもらいなさい」
　父親に背を押されて、ようやくリーナはロスの手を取った。しかしライアンは泣きじゃくって母親の胸から離れようとしないので、
「おまえも一緒に行っておいで」と、ギャレットは妻に言った。
「すみません、お父さん…」
　息子を抱き上げ、娘のもう一方の手を取りながらパレは言い、四人は家の外に出ていった。
　父も、子供たちと同じにこの空気から逃れたいんだろう。
　ナッシュはそう思っていた。
「ごめんよ、子供たちがうるさくして」
　子供たちが出て行ってしまうと、ギャレットはナッシュに謝った。
　パレと子供たちを連れてこない方がよかったかもしれない。妻と子を亡くしたナッシュにとって、残酷なことではなかっただろうか。
　だけど、パレもメルレインに最期の別れを告げたかったのだ。ナッシュの元に嫁ぐまで、メルレインはパレと仲良くしていたし、リーナや生まれたばかりのライアンのことを可愛がっていた。
　ナッシュもそのことをよく知っていた。子供を授かって、育児の不安を口にするナッシュに、「わたしは義姉を手伝って、姪と甥の育児をしたんだから。わたしに任せれば大丈夫」そう言って笑っていた。
　だが、ナッシュもメルレインも、我が子の育児で苦労することはなかった。
「あやまらないでよ」
　ナッシュは言った。義兄に、義父母に、いくら謝っても済まないのは自分の方だ。
「ナッシュ…自分が悪いなんて思わないで」
　アディリーンが言った。
　ナッシュは、何も答えることはできなかった。
「メルレインは…ナッシュ、あなたと結婚して幸せだったんだから。あなたがそんな風に思っていたら、メルレインがかわいそう…」
　言葉の最後は、すすり泣きに変わった。
　義母の言うとおりだと思う。
　ナッシュの過失でメルレインが死んだわけではないし、メルレインはナッシュを恨みはしないだろう。アディリーンは、ナッシュがそう考えて自分を責めていると思っているようだが、微妙にそうではなかった。
　自分が義父母から、娘を永遠に奪ってしまった。目の前で打ちしおれているロデリックとアディリーンを見ていると、どうしてもそう思わないではいられず、済まないと思うのだった。
　そして亡き妻に対して済まないと思うのは、彼女を死なせたことではない。自分が生きていることだった。
　二人が授かった子供だった。子供に関わる喜びも苦しみも、二人に同じく与えられるべきではないのか。それなのに、妻だけが出産で苦しみ、死んでしまった。子供のために死ぬなら、自分も一緒に死ななければならないはずではないか。
　メルレイン亡き今、自分が死んだところで悲しむ者もいないのに。
　ナッシュは、自分が死んでも父はさほど悲しまないだろうと思っていた。
　なのに、その死を嘆く親兄弟がいるメルレインは死に、自分は生きている。おかしな話だ。
　やがて、外から子供たちの歓声が聞こえてきた。
　子供たちは、ロスに懐いたらしい。ナッシュの子供時代から、ロスはナッシュ以外の子供には愛想がよかったと、ナッシュは思った。

　しばらくすると、子供たちの歓声が止んだ。ロスが、訪ねてきた誰かと話している。そして、扉が叩かれた。
「ムーングロウのカウンセラーギルドから参りました」
　訪問者が言った。手伝いに来ていた者の一人が扉を開けた。扉の向こうには、金色の縁取りがある青いローブを着た人物の姿があった。
「こんにちは。ナスタージさんはどちらですか？」
「わたしです」ナッシュは立ち上がった。
「わたくしはカウンセラーのシオンと申します。このたびは、奥様とお子様の御不幸、お悔やみ申し上げます」
　カウンセラーはお辞儀をした。
「墓地へご案内するために参りましたが、お仕度はよろしいでしょうか？」
　カウンセラーの言葉は極端に慇懃で、てきぱきとしていながら、弔意を過剰でない程度に漂わせている。
「はい、仕度はできてます」答えたのはギャレットだった。
「では、参りましょう」カウンセラーは言った。
　ギャレットと、近所の男たち、ロスの元同僚たちなどの手によって、二つの棺は外に運び出された。
　家の外には、手斧を持ってプレートアーマーを身につけた一人の男性の姿があった。
「彼は、わたくしどものほうで護衛をお願いした方です」カウンセラーが説明した。
「墓地のほうにも、モンスターを抑えるために十一名の方に待機していただいておりますが、危険が全くないとは申せません。お子さんたちはお家に残られた方がよろしいかと思われますが」
「それじゃあ、わたしが子供さんたちを預かりましょうか」
　ロスの元同僚の、錬金術師の女性が言った。
「お姉さんは、お墓まで付き添いたいでしょう？ロス、あんたはナッシュと一緒に行きなさいよ」
「言われなくても分かってるよ」ロスは言った。
「リーナ、ライアン、おばさんと一緒にお留守番できるね？」
　パレは、子供たちの前にしゃがんで言った。
「うん」リーナは答えたが、物々しい雰囲気にまた怯え始めていたライアンは、もじもじと母親に抱きついた。
「ライアン、お留守番するんだよ」リーナが、弟の手を引いた。
「今度はおばさんと一緒に遊ぼうね」錬金術師の女性がそう言って頭を撫でると、ライアンはようやく、母親にしがみついていた手を離した。
「迷惑かけると思いますけど、よろしくお願いします。それじゃあ、リーナ、ライアン…」
　パレは、子供たちに言った。
「メルレイン叔母ちゃんと、お別れだよ…二人とも、叔母ちゃんにおしめを替えてもらったんだからね…」

　墓地へ向かう道程で、何度かモンバットの甲高い鳴き声が聞こえた。
　いつもなら、その声が聞こえた途端全力で走ればまず逃げおおせるが、棺を担いで墓地に向かう者たちはそういうわけにはいかない。そのかわり、護衛の戦士が、襲ってくるモンバットをすべて倒してくれる。戦士は汗一つかかず、小枝でも打ち払うかのように軽く手斧を振るだけで、すべて一撃で倒した。
　墓地では、カウンセラーが予告したように、十一名もの戦士や魔法使いたちが待機していた。彼らの足元に、たくさんの骨や、ぼろ布のようなものが散らばっている。
　葬列が到着したとき、墓石の一つの後ろから突然、骸骨が現れた。葬列の人々が驚く間もなく、近くにいた戦士が二人、駆け寄って刀を一回か二回、振るうや骸骨は崩れ落ちた。
　かと思うと、恨めしげな呻き声が聞こえた…振り返る間もなく「Vas Flam」―呪文が唱えられ、人々が見たのは、煙を立ち上らせて地面にへばりついている、ぼろきれのような何かだけだった。
　墓地は、死者が最期の眠りにつく場所だ。遺された者はここで死者に最期の別れを告げ、普通は二度と会いに来ることはない…会いに来たくても、普段の墓地はこのようなモンスターたちに支配されているのだ。普通の人間はそのまま死者の列に加わる羽目になってしまう。
　死者を横たえる為にここに来るときには、モンスターを倒す力を持つ者たちの手を借りるのだ。カウンセラーというのは、その力を持つ者たち…冒険者たちに対する世話人だ。ナッシュたちのような一般人は、カウンセラーを通じて冒険者たちの手を借りられるよう依頼するのである。
　男たちの手で墓穴が掘られ、二つの棺が並べ置かれる間、ほとんど絶え間なくどこかにモンスターが現れてはうち倒されていった。
　棺の上に土がかけられ、その上に新しい墓碑が置かれた。
“ナスタージ・ファラウェイの妻メルレイン・グリーンウッドとその息子 ここに眠る”
　墓碑にはそう記されていた。

　母親と暮らしていたことはぼんやりと覚えているが、いつ母親がいなくなったのかは覚えていない。だが、四歳の時のことだと聞いていた。
　母親は自分勝手な女で、ベスパーの魔術師ギルドに入るために子供を捨てて行ったのだと、ナッシュは父親から聞かされていた。父親は何かにつけて、母親がどれほど身勝手な人間だったかということをナッシュに言って聞かせたので、ナッシュも、自分の母親というのはひどい人間だと思いこんで成長した。しかしある程度ものがわかってくると、父親が一方的に言うことを真に受けるのは間違っているかもしれない、と思うようになった。
　それで、父親の同僚セシルに、父親に内緒で母親のことを聞いてみたことがある。両親はムーングロウの錬金術師ギルドで知り合い、ギルドの錬金術師セシルもナッシュの母親のことをよく知っていた。ロスはよく、セシルとナッシュの前でナッシュの母親の悪口を言い、セシルはいつもロスに同調していた。だがセシルは気の優しい男だから、ロスを哀れんで調子を合わせていただけかもしれない。
「自分の母親を悪く言われて育った、おれのこともかわいそうだと思ってよ…」
　ナッシュがそう言うと、最初はロスと同じことしか言わなかったセシルだが、少しずつ違うことを話し始めた。
「確かに、デルファイは自分勝手というか、あまり周りのことを気にかけない女だったけど…何というか憎めないタイプで、人から好かれてたよ。それに、とても才能のある錬金術師だった。ロスも、このギルド一の天才と言われていたんだけど、デルファイはどんどん才能を伸ばして、ロスを超える天才と言われるようになった。それが、二人が別れる原因になったんだと思う。ロスのプライドを傷付けたんだろう」
「ベスパーのギルドに入るために離婚したと、父さんは言ってたけど」
「それは逆だよ。ロスと別れたのでこのギルドに居られなくなって、ベスパーのギルドに移ったんだ。その時、彼女を慕ってた若い連中がごっそり、一緒にベスパーに行ってしまったものだから、かなり困ったよ」
　そう言うセシルは本当に苦々しげだったから、公平な見解はさておいて、ナッシュの母親を良く思っていないのが本心らしいとナッシュは思った。
「…おれを連れていこうとは思わなかったのかな…」
「それは…ロスが離さなかったのかもしれないし、二人の間でどんな話し合いをしたのかはわからないからなぁ」
　セシルが言葉をにごしたので、ナッシュは察した。母は、父を見限ると同時に、父との間に生まれた息子も切り捨てて行ったに違いない。

　自分の存在に、何の意味があるのだろう。
　今、ナッシュは、ルナに戻るためムーンゲートの中に消えていくロスを見送りながら、セシルから聞いた話を思い出していた。
　ふと、足元の青い草に気付き、ナッシュはかがんでそれに手をかけた―だが、自生のナイトシェードだと思ったものがただの雑草だと気付き、引っこ抜くのをやめた。
　子供のころ、父と同じ錬金術師になりたいと思っていたことがある。だが、それを言うと父親は不機嫌になった。自生のマンドレイクの根や血苔を探し集めて、秘薬屋に卸しては小遣いにしていたこともあるが、父親に知れるとこっぴどく叱られた。それっきり錬金術師や薬草師になる考えは捨てた。
　ロスは数年前に、ルナの魔法店に移籍した。当時、新しく発見されたばかりのファセットに進んで向かおうというロスは、ムーングロウの錬金術師や魔術師たちからも賞賛されたし、ナッシュも父の先進的な面を知って感激したものだったが…時々帰省しては、ルナの錬金術がいかに遅れているかを嬉々として語る父を見て、そんなところかと落胆した。もう、父を見限った母を責める気にはなれなかった。こんな父の子である自分も、見捨てられても仕方がない。
　そんな自分が、子供を授かったとき、すべてに見捨てられたような気持ちからようやく解き放たれたのに。
　それなのに、その子供までが、ナッシュの元から去っていった…
　どこからか、哀しげな呻き声が聞こえてきた。
　いつの間にか墓地まで歩いてきてしまっていたのだ。モンスターたちが、人間の姿を見つけてこちらに迫ってくる…だが、彼らとの間には、墓地を囲む柵があった。モンスターは、門を通ってこちらに来るということを思いつかないらしい。
　それなら、自分の方からそちらに行ってやろうかとナッシュは思った。
　そうだ、メルレインと子供のところへ行こう。二人は、二度と自分を見捨てまい。―もはや、死だけが自分を受け入れてくれるものだと思えた。
　ナッシュは、墓地の門へと向かった。そんな彼をめがけて、何かが飛んできた。それは、彼の左肩をかすめた。ナッシュは悲鳴を上げて倒れた。
　最初は何が起きたのかわからなかった。服が焦げて、左の肩から二の腕にかけて肌が焼けただれている。火の魔法で攻撃されたのだとわかった。魔法を使うモンスターがいたのだ。
　―迎えに来てくれた…
　火傷の痛みで脂汗を浮かべながらも、ナッシュは自分が微笑んでいることを知った。
　光る目でこちらを見つめている、透き通った姿の得体の知れないもの。あれが魔法を放ったのだろう。次の攻撃で、メルレインと子供のところへ行ける。ナッシュは待った。
　呻き声と共に、火の矢が現れて、目の前に迫ってくる。
「In Sanct Yelm」
　突然、呪文が聞こえた。次の瞬間、眼前の光景が一瞬にして消えた。
「立て！」
　何者かが、ナッシュの右腕を引っ張り上げ、ナッシュは引きずり立たされた。
「走れ！」その何者かは命令し、ナッシュを引っ張って走り出した。引きずられるままに、ナッシュは走って墓地から離れる羽目になった。
　その男はプレートアーマーを身にまとい、手斧を腰のベルトに差していた。埋葬の時、墓地までの護衛をしてくれた戦士だと気付いた。

　戦士に引きずられ、王立動物園の入り口まで走った。入り口横のベンチで、戦士はナッシュの左腕に包帯を巻いた。
「おれはジャックポットっていうんだ」
　戦士は名乗った。ジャックポットの年齢は、ナッシュと同じか少し若いくらいのように見えた。
「…おれはナッシュ」仕方なく、ナッシュも名乗った。
「奥さんのところへ行こうと思ったのか」ジャックポットが言った。
「うん…」言い訳をするのが面倒で、ナッシュは正直に答えた。
「遺される人間の気持ちを考えなよ」
　ジャックポットの口調は、静かなものだった。怒っているようではない。
「おれが死んだところで、悲しむ人間なんかもういないよ」
　こんなことを言っても仕方がない。判っていても、そう言うしかなかった。
　ジャックポットは言った。
「奥さんの親が、気にするよ」
　その言葉に、ナッシュははっとなった。
「奥さん、お産で亡くなったんだろ？奥さんの親に、申し訳ないと思わなかった？」
「…なんで、わかるんだい？」
「おれの時もそうだったからさ」
　ベンチの背もたれに寄りかかり、ジャックポットの目は、どこか遠いところを見ていた。
「おれのかみさんも、難産で死んで、子供も死産だった。おれは小さいときに親が死んで兄弟もいなかったし、すごく絶望的になって、ブリテインの北の湖に飛び込んだんだよ…ブリテインにも墓場はあるけど、墓場のモンスターの中に飛び込もうなんて思いつかなかったよ」
　ジャックポットは、薄い笑みを浮かべた。
　ナッシュは、黙って話の先を促した。
「運悪く…っていうか運良くっていうか、見てた人がいて、すぐ助け出されちゃったんだ。カウンセラーのところに担ぎ込まれて、かみさんの親が駆け付けてきて…わんわん泣きながら、謝られた」
「謝られた？」
「うちの娘が、おまえにそんな悲しい思いさせてごめんなさいとかって…冗談じゃないよな。親にしてみれば、おれがかみさんを死なせたようなもんだろうと思ってたのに」
「……」
「おたくのとこも、難産で奥さん亡くなったって聞いて…旦那の身内はいないみたいだったし、まさかとは思ったけど、来てみたら旦那、自殺しかけてるし」
　ナッシュは、思わず鼻を鳴らした。あの葬列の中に、身内がいないように見えたのか。無理もないと思うが。
　ジャックポットの言うことはよくわかる。ナッシュがメルレインの後を追って死ぬことは、ロデリックとアディリーンをこの上さらに嘆かせることになるだろう。筋が通らないと知りながらもナッシュが二人に負い目を感じているのと同じで、二人に後味の悪い負い目を負わせることになる。
　じゃあ、自分は、ロデリックとアディリーンを嘆かせないためだけに、意味のない生を、続けていかなければならないのだろうか…？
「ついでに教えてよ」
　ナッシュは言った。
「あなたはそれで、親御さんを泣かせないために生きていこうって思ったの？それだけで、絶望的な気持ちが無くなった？」
「無くならなかったよ」
　ジャックポットはそう答えた。
「それでおれは、冒険者になろうと思ったんだ」
「…冒険者に……？なんでさ？」
「冒険者になれば、ドラゴンにでも踏みつぶされてすぐ死ねると思ったから」
　それを聞いて、ナッシュは訝しく思った。
「…冒険者ってのは、加護を受けていて絶対死なないものだと聞いたことがあるけど…」
「その通り」ジャックポットは言った。
「ブリテインにたむろしてる冒険者たちがさ、今日もいっぱい死んだとか言ってるのを聞いて、冒険者ってのはそれほど死と隣り合わせなんだと思ったわけ。そうじゃない、冒険者には加護があって、死んでもすぐ生き返れちゃうんだ。だから、毎日死んだ死んだと笑って言ってられるわけだ」
「…本当に、冒険者は死なないの？」
「年を取れば普通に死ぬんだろうけどね。ちょっとやそっとのことじゃ死ねないんだな」
「それじゃ、よけいに辛くなっただろう」
「それが、そんなことなかったよ。コープサーって知ってる？でっかい草で、生き物みたいに動いて襲ってくるんだけど、まずあれに向かって行って死んで、生き返って、本当のことがわかったとき、そのときやっと吹っ切れて…なんか生まれ変わったみたいにさ。それで、今は気楽にやってるよ」
「…楽に生きてて、死んだ奥さんに悪いと思うことはない？」
「おれが鬱々生きてるより、楽しく生きてる方がかみさんだって嬉しいよ。おたくの奥さんもそうじゃない？」
「…うん」それは、多分そうだろうと思う。
「大体、後を追ったって喜んでくれないだろうし。いつかは嫌でもそこに行くんだし」
「…冒険者って、どうやったらなれるの？」
「冒険者になるつもりかい？」
　正直、どうでもいい。
　でも、どうしたらいいかわからない。自分も一回死んでみたところで、この男の言うように気が楽になるとは思わなかったし、気楽になりたいとも思わなかった。だけど、毎日ドラゴンに踏みつぶされる暮らしをしていたら…やっぱり気が紛れるかも知れない。そう、気を紛らわさなければ、生きていけない…。
「冒険者になるのなんか簡単だよ。神殿で誓いを立てるだけで加護を受けられる。ルナの知恵の神殿なら、ムーンゲートからすぐ行けるよ」
「じゃあ、行ってみようかな」ナッシュは立ち上がった。
「今すぐ？」ジャックポットが驚いて言った。
「うん」
　本当にどうでもよかった。ひと晩じっくり考えようとも思わない。
「…本当は、こんなの生きてることにならないのさ」
　ふいに、ジャックポットが言った。ナッシュは振り返った。
　ジャックポットが、さっきまでとうって変わった、澱んだ目で、ナッシュを見ていた。
「もう、どんなモンスターも、死ぬのも怖くなくなったよ。こんなのは生きてることにならないんだよ。コープサーにやられたとき、本当のおれは死んだんだ。いつか本当に死ぬとき、きっと、本当に生まれ変われるんだよ…」
　その言葉は、さっきまでに同じ口から語られたどんな言葉より真実味があった。
　いつか生まれ変われる時まで。
　苦しい生から、気を紛らすために、生でも死でもないところへ、ほんのひととき、逃れるだけだ…
　それは、いいかもしれない。
「…冒険者になってみるよ」
　ナッシュは、そう宣言した。
「…そうかい」
「いろいろありがとう」
　ナッシュは、右手を差し出した。ジャックポットはベンチに座ったまま、その手を握った。
「今度会うことがあったら、一緒にコープサーの奴を狩りに行こう」ジャックポットは笑った。
「ぜひよろしく」ナッシュも笑って応えた。
「それじゃあ」
　ナッシュはムーンゲートに向かった。

　ジャックポットは、ずっとその場に座り続けていた。
　一瞬のことだったかも知れないし、長い歳月が経ったのかもしれない。その男の顔は老いてゆき、鎧には錆が浮き、やがて崩れ落ち、風に吹かれ、跡形もなく姿を消した。